ひこばえの

底辺お絵かきマンのデカい独り言。「読者登録について」をご一読ください。

秋田・狛村経緯

 幾つもの赤提灯が揺らめく夜の繁華街。花の金曜日という言葉通り、どの店も大変な賑わいを見せている。店内は笑い声に溢れ、その熱気は繁華街一帯を覆いつくしていた。
 そんな夜の街特有の喧噪に包まれた細い小道を、一人の男が足早に進んで行く。両脇に小さな飲食店が軒を連ねるこの場所は、人通りの多さの割に道幅が狭い。前後左右を歩く人と否が応でも体を近づけてしまう程だ。意図せず肩がぶつかってしまい、謝る人の姿が度々見受けられる。
 しかしこの男、狛村隼人の場合は違った。老若男女がごった返すなか、一人黙々と歩く白髪の老紳士。ちょうど彼の右隣りを歩いていた若いカップルは、狛村を見るなり声を潜め、少しでも彼と距離を取ろうとする素振りを見せる。
 このカップルだけではない。何かの拍子に後方を振り返った男性も、逆方向の流れにいてすれ違った若い女性陣も、狛村の存在を認めた途端それまでの会話を中断し、彼の歩行の邪魔にならぬよう、それとなく体の間隔を開けている。何故ここまで見ず知らずの人々に警戒されてしまうのか。その理由は、彼の風貌にある。
 狛村はスーツの上からでも分かるほど恰幅が良く、顎には立派な白髭をたくわえている。日本人離れした体格に加え、やや落ち窪んだ瞳から発せられる眼光は鋭い。その目力で見つめられると、何も悪い事をしていなくても謝罪の言葉を口にしたくなってしまう。それほどまでに狛村の漂わせる雰囲気は重厚で厳めしく、また恐ろしくもあった。彼の人となりを知らない者が、もしやカタギの人間でないのでは、と警戒してしまうのも無理なかった。
 通常であれば、他人からその様な態度をとられれば気分を害してしまいそうなものだが、当の本人に気にかける様子は全くない。それどころか、これ幸いと周りが避ける事で出来た隙間を上手く利用し、この人ごみの中を悠々と移動している。どうやらこの様な事は彼にとって日常茶飯事らしい。人の波の中を縫うように進んで行き、とある店の前に到着したところで、彼はピタリと足を止めた。目当ての場所に到着したのだろう。店先にある立て看板を一瞥すると、その大きな体を屈め、店の暖簾をくぐっていった。
 
 
 
 外観から想像していたよりも店内は広かった。木製の椅子や机が一定の間隔で並べられ、ごくごく普通の大衆居酒屋といった雰囲気だ。例によって室内は多くの客で混雑しており、接客も厨房も大忙しである事は一目瞭然である。店員の手を煩わせるのも何なので、先に来ているであろう人物を探すべく、狛村は辺りを見まわした。
「おじさん!こっちこっち!」
 雑踏に混じって聞きなれた声がした。見ると店の奥、壁際の二人席から手を振る男の姿が見える。狛村は一瞬笑顔を見せると、座っている他の客の背中を蹴らないよう注意しながら近寄った。
「久しぶりだなぁ圭一朗!」
「久しぶり。去年の正月以来か。元気そうで安心したよ」
 圭一朗と呼ばれた男は椅子から立ち上がると、柔和な笑顔でもって狛村を迎えた。
 彼の名は秋田圭一郎。スラリとした細身の体形に、仕立ての良さそうなスーツが良く似合っている。年齢は三十代後半から四十歳あたり。黒髪を後ろに流し固めたヘアスタイルで、典型的なサラリーマンといった出で立ちだ。
 一見するとなかなかの伊達男だが、口や顎には無精髭を生やしており、スーツもくたびれ皺が目立っている。そんな彼の風体をだらしがないと落胆するか、不思議な大人の魅力があると感じるかは意見が分かれそうではある。
 秋田と狛村は遠縁で、秋田の母親の旧姓が狛村だ。狛村家は山間部にある小さな農村に居を構え、その土地に住んでいれば知らない者はいない名家である。一族はそれなりに繫栄し、家系図において狛村と秋田が交わるには四代前まで遡る必要がある。それでも親戚づきあいを重んじる家柄である事や、互いの住む家が近いという理由で、秋田は物心ついた時分より何かと狛村の世話になっていた。
「この間は花をありがとな。アイツもきっと喜んでるよ」
 席に着き、さっそく注文し終えた狛村は、秋田に軽く頭を下げた。
「いや、俺としてはむしろ申し訳なくて。今年はお線香を上げに行けなかったから」
 狛村がアイツと呼ぶのは、長年彼と連れ添った妻の事だ。体調不良をただの風邪だと思い込み、病名が分かった時には遅かった。
「もう三年か……」
「あぁ。まだいまいち実感が湧かないけどな」
「本当に優しい人だった。俺が遊びに行くと、いつも笑顔で出迎えてくれて。ご馳走してくれたご飯も美味しかったなぁ」
「子供が出来なかった俺達にとって、お前は本当の倅みたいなもんだからな。アイツ、お前が来る日は本当に嬉しそうに台所に立ってたよ」
 ちょうどその時、店員が狛村のジョッキを持ってやって来た。なみなみ注がれた麦酒を片手に、老紳士はいたずらっぽく笑う。その表情を見れば、先ほど彼を怖がった人達も自身の誤解に気付くだろう。
「さ、久しぶりにゆっくり話せるんだ。湿っぽいのはこのくらいにして、パーッと飲むとしようや」
 それから二人は時間が過ぎるのも忘れ飲み明かした。内容は取るに足らない世間話だが、昔から気の合う間柄という事もあり、互いに有意義な会話を楽しんだ。
「それで、いつになったら良い子を紹介してくれるんだ?」
 よく出汁のしみた琥珀色の大根を箸でつつきながら狛村が言う。その頬は赤く上気し、声量も普段より大きくなっている。
「またその話?ないない。出会う機会もないし、あったとしても仕事が忙しすぎて時間の余裕がないよ」
 一方秋田は狛村とほぼ同程度の飲酒量にも拘らず、大して酔っている風でもなかった。酒の席になると決まって投げかけられる質問に苦笑しつつ、淡々と日本酒の入ったお猪口を口に運んでいる。
「男が仕事に精を出すのは立派だけどな。もう四十近いだろ?いつまでもそんな事言ってないで、もう少し周りをよく見てだな……」
 
 
「と、言いたいところだが……。その様子じゃ当面女の話は無理そうだな」
「え?」
 驚いた秋田が顔をあげると、真っ直ぐこちらを見つめる視線とかち合った。それまでの穏やかな雰囲気とは打って変わって眉間には皺が寄り、表情は強張っている。秋田は自然と背筋を伸ばした。
「久し振りに電話してきたと思ったら、真面目な声で会って話したいって言うからよ。何か相談事でもあるんじゃないかと思って来てみれば……。見たところかなり痩せたみたいだし。どうした。仕事が上手くいってないのか?」
 心から身を案じてくれている狛村の眼差しを受け、秋田は俯き黙り込んでしまう。状況を説明する適切な言葉を探しているのだろう。ややあってから、とても言いにくそうに口を開いた。
「……おじさんさ、探行士の仕事やったことあったよね」
「あ?あぁ。黄泉公社が出来て間もない頃に少しだけな。せっかく世間が大注目の黄泉の内部について話そうと思うのに、お前ときたら『気味が悪いから聞きたくない』って、耳塞いじまうんだもんな。成人してもビビりは相変わらずだな、と思ったっけか」
 口では茶化してみたものの、探行士という単語に狛村は内心嫌な予感がしていた。
 探行士は今や世間において、ある種ヒーローとして扱われている。人間の秘めたる力を解放し、黄泉という未知なる世界へと分け入っていく屈強な冒険者。子供達に将来の夢を聞いたらば、その大半が彼らへの憧れを口にするだろう。
 しかしその実態は、理想の姿とは程多い。どれだけ勇敢なイメージで塗り固めようと、彼らの多くは急ごしらえで金を稼ぎたいならず者か、はたまた地上では満たすことの出来ない歪んだ欲望を抱えた者か……。いずれにせよ、真っ当な集団とは言い難い。血と金の臭いが濃厚な職の名を目の前のやつれた男が口にした事に、狛村は不安と戸惑いを隠しきれなかった。
「圭一郎。まさかとは思うが、黄泉に行こうなんて考えてるんじゃないだろうな?」

 

 狛村としては、まずその線でないことを確認してから話を進めたかった。しかし秋田は質問に答えず、空いた酒瓶を見つめたまま話を続ける。
「黒岩祐介のことは覚えてる?」
「お前の同級生の祐ちゃんだろ?昔よく一緒に遊びに来てたな。ソイツがどうした」
「祐ちゃんさ、料理が上手かったんだ。あの家は兄弟が多いし、嫌でも身に着いたのかもしれないけど。ともかく、ずっと自分の店を持ちたがっていたアイツを、俺は応援してたんだ。そうしたらある日、仕事を辞めたって連絡が来てさ。やっと独立する目途がたったって言うから、二人で喜んだよ。ただ、店を作る為の融資を受けるには、連帯保証人が必要になる。親や親戚は頼れないから、俺にお願い出来ないだろうかって相談されて……」
 ちょっと待てと、狛村は額に拳を当てた。
「最初に聞かされた金額は大したことなかったんだ。裕ちゃんも、連帯保証人なんて形だけ。名前を借りるだけだからって言ってたし……」
 感情を表に出す事が苦手な秋田にとって、黒岩祐介は数少ない親しい友だった。就職して以降も親交は続き、そう頻度は高くはないが、定期的に酒を酌み交わす仲だった。
 黒岩の実家は母子家庭で、おまけに兄弟が多い。今でも下の弟達のため懸命に働く母親に、黒岩が金の話を持ち出せなかった事は想像に容易い。そして何より竹馬の友である彼の役に立てる事が、秋田は純粋に嬉しかった。何一つ疑わず、助けを求める朋友の声を無視しようなど、露ほどにも思わなかった。
 ある日の晩。仕事から帰った秋田は、自分の家の前に立つ見慣れぬスーツ姿の男を見る。
「そいつら曰く、祐ちゃんが逃げ出したらしい。家にもいないし連絡もつかない。そうなると、当然俺が金を払わないといけないから……」
 狛村との会話で暫く忘れていた現実が戻ってきたのだろう。秋田の顔色が見る見るうちに蒼くなっていく。狛村は慌てて水の入ったコップを差し出した。
「……ごめん」
「いや……。それで、幾ら返さないといけないんだ?」
 今にも倒れ込みそうな秋田に、そんな質問を投げかける事は辛かった。しかし狛村としては、もしも自分が手助け出来る範囲の金額ならばと思ったのだ。だがそんな気遣いも、俯き加減に呟かれた言葉にあっけなくかき消される。とてもじゃないが通常の稼ぎで払いきれるものではなかった。
「何でそんな金額……。祐介が上乗せで借りたとしても、お前に追加分を支払う義務はないだろう」
「俺も最初にそう説明されたから契約したんだ。貴方が支払うのはこの金額ぽっきりですって。なのにその時の金額と比較にならないくらい高くなってたから驚いてしまって……。初めて取り立てが来た時に、話が違うと言ったんだ。でも向こうは契約書を出してきて、ここに継続保障と書いてあるから、俺に追加分も含めた全額の返済義務があるの一点張りで……」
「確かにお前が判を押した契約書だったのか?」
「それは間違いない。契約する時、判子が少し滲んでしまって失敗したなと思ったんだけど、それと同じものだった」
 つまり秋田の記憶が確かならば、説明された内容とは違う契約書に判が押されたという事になる。安い推理小説の様な展開に、狛村は首を傾げた。
「何か妙な出来事はなかったのか?変なタイミングで契約書から視線を逸らされたとか、似た様な書類に何度も判を押すよう言われたとか」
「俺も色々考えたんだけど、これといって妙なところは……。強いていうなら、あの日同席してた金貸しが、やたら饒舌だったって事くらいしか」
 その男は、黒岩と共にやって来た。正直なところ、秋田は男の顔をよく覚えていない。それだけ容姿に関して印象的な部分がなかったわけだが、ただ一つ、とにかく説明がくどいくらい長かったという点だけは記憶していた。書類に目を通せば分かるようなことを詳細に説明し、秋田と視線を交えたまま逐一内容を理解したかどうか確認してくる。淀みなく喋るその姿に、契約書の内容を一言一句全て暗記しているのではと感心する程だった。
「金を貸すんだから、このくらい几帳面な人じゃないと務まらないんだろうって、その時は印象が良かったくらいだったんだけど。今思えば向こうが口で言う説明で分かった気になって、ちゃんと文章を読んでなかったかもしれない……」
 咄嗟に狛村は何か言いかけたが、代わりに自身の顎に手を添えた。状況を整理しつつ、あらゆる可能性について必死に考えを巡らせる。
「……専門家に相談はしたのか?」
「知り合いの弁護士の所には行ったよ。でも駄目だ。まず第一に、向こうの説明不足で俺が意図しない契約を結んだと証明する事自体が難しい。もし仮に証明出来たとしても、一度でも俺に金を肩代わりした履歴があるのなら、返済の意志があるものと見なされて契約解消は難しいって」
「代わりに払った事があるのか」
「一回だけ。今月どうしても厳しくて、今回だけだからって頼まれた時がある。払った分は直ぐ返して貰ったし、貸したこと自体忘れてたくらいだったんだけど……」
「……圭一郎」
 一度は飲み込んだ疑念が、狛村の中で確信へと変わった。
「まぁ、なんだ。推測でこういう事は言いたかないんだが……」
 出来る限り柔らかい表現を探そうにも、言葉が続かなかった。
「……やっぱり騙された、のかな」
 狛村の言わんとした事を端的に述べた顔からは、恨みや憤りといった感情は読み取れない。何かに対して観念した様な或いは嘲笑う様な……。そんな乾いた表情を浮かべる秋田に、狛村はただ小さく頷くしかなかった。
 契約書の文面を読ませまいとする、まくし立てるような説明。保証人の身分を確定させる為の一度きりの返済。挙句の果てには金を借りた本人が失踪したとなれば、全てを偶然と片付けるには無理がある。実際どこまで黒岩が関与していたのかは不明だが、秋田は意図的に不利益な契約を結ばされたと見て間違いなかった。
「とにかく状況は分かった。だがな、探行士はやめとけ。今の所で働いて、地道に少しづつでも返していけばいいだろう」
「仕事はクビだよ」
 吐き捨てるようにそう言うと、秋田はコップに残った水を一気に呷った。
「取り立てが職場まで来るんだ。酷い嫌がらせで仕事にならないし、周りからの目もある。会社としても関わり合いになりたくないから辞めてくれって、上司に頭下げられたらもうどうしようもない」
「しかしだな……」
「額も金利も多いから、並大抵の稼ぎでは追いつきそうにない。この年じゃ就ける仕事にも限りがあるし……。そう思ってたら、たまたま良い求人が見つかったんだ。カサンドラ社っていうんだけど、俺の経歴なら課長としての雇用も考えると言ってくれた」
 狛村は唸った。確かにその手の理由で探行士になる人間は多い。だが、曲がりなりにも職務経験のある狛村に言わせてみれば、探行士の仕事は様々な意味で秋田に向いていない。
 まず第一に、彼は幼い頃から非常に怖がりだ。狛村の本家には広い日本間が幾つかあったが、幼少の秋田は襖の向こうに何かいそうな気がすると、よく泣いて周りを困らせた。学生時代には、気になる女の子とお近づきになれるかもしれない肝試しにも迷わず不参加。聴いていたラジオで恐怖体験話が始まろうものなら直ぐさま電源を切り、未だに一人で歩く夜道は苦手だ。そんな男がどうして、あのおどろおどろしい常に死と隣り合わせの黄泉を平気で歩けるだろうか。
「ごめん。せっかく久しぶりに会えたのに、こんな暗い話で……」
 そして狛村が秋田の黄泉行きを危惧するもう一つの理由は、その気質だ。気弱とまではいかないが、彼には周囲から一歩引いたところで相手の顔色を伺う癖がある。優しいと言えば聞こえは良いが、この性分により、自身の希望より他人の要求を優先させてしまい、損な役回りを背負わされる事が多い。黄泉には様々な事情を抱えた人間が集まるが、その大半は禄でもない理由で人生切羽詰まったゴロツキどもだ。我の強い荒れくれ者集団の中で、秋田のような人間が並々ならぬ苦労を強いられる事は想像に難くない。
 そこまで考えたところで、狛村はまだ中身の残るジョッキを勢いよく飲み干した。
「……黄泉へ行くっていう決意は変わらねぇんだな」
「うん」
「お前が腹括って決めたことだ。口出しはしねぇよ。俺が体験したことで良ければいくらでも話してやる。ただし、俺もその会社に入れるよう、上司に話をつけて来てくれねぇか」
 秋田の表情が硬まった。
「可愛い倅が死ぬ気で戦うってんだ。一緒に行かないでどうするよ」
「ちょ、ちょっと待って。俺、そんなこと頼みたくておじさんにこの話をしたわけじゃ」
「分かってる。これは俺の我儘だ。アイツが早くに逝っちまっただろ。となると俺の残りの人生の楽しみといえば、お前が可愛い嫁さんと楽しそうに暮らす姿を見届ける事だったわけよ。子供が出来れば馬鹿みたいに甘やかして、勝手に爺さん面してさ。そういう計画だったんだ」
 空になったジョッキを脇に寄せ、狛村は軽く鼻をすすった。
 秋田の父親は彼がまだ幼い頃、女を作り消息を絶った。そのショックからだろうか。母親は、半ば投げやりに禄でもない男と付き合っては別れるというパターンを繰り返す。最低限、息子の世話はするものの、彼女の生活の中心は色事だった。
 狛村夫婦が秋田の世話を焼き始めたきっかけは、この健全とは言い難い家庭事情を持つ少年への同情だった。特に狛村の妻が、子を生せない体だったという事も少なからず影響していただろう。近所に住む親戚という事で、もともと夫婦と母親の関係は、そう悪くなかった。夫婦は子がいない寂しさを理由に、定期的に秋田を預からせて貰いたいと申し出る。あくまで他所の子という一線は引いていたが、毎日見かける寂しげな少年の心を少しでも明るく出来ればと思ったのだ。
 しかしこの一方的な憐みの念は、時の流れと共に段々と薄れていく。毎日とは言わずとも同じ釜の飯を食い、多くの時間を共有する。いつしか三人一緒に過ごすことが当たり前になっていた。そこには同情も憐みも存在しない。疑似的とはいえ、本物の家族のような温かな空間だった。
「手前勝手な頼みだってのは承知してる。けどよ、あんな場所に行っちまうお前の帰りを何もせずただ待ってるだけなんて……。俺には無理だ。耐えられない」
 狛村の脳裏に自身と同様、秋田を心底可愛がっていた妻の顔がよぎる。彼女が生きていたのなら、今日のところは事情を聞くに留めて自分は一旦帰宅していただろう。家に着くと今か今かと帰りを待ちわびた妻が、飲み屋での会話を尋ねてくる。秋田が負わされた借金と彼の今後の身の振り方について聞く彼女は、きっと今にも泣き出しそうな顔をする。そして迷うことなく、秋田と共に黄泉へ行くよう自分を促すに違いなかった。
 万が一、現地で命を落とすことになっても悔いはない。
 未だ申し出を受け入れるかどうか決めかねている秋田に、狛村は深々と頭を下げた。
 
 
「……祐介の行方は全く分からないのか?方々探したんだろ? 」
 飲み屋の勘定を済ませた後、二人は小さな公園にあるベンチに腰かけていた。繫華街から少し離れた住宅街にあるこの場所は、夜も更ければ人気がない。静かに腰を据えて話すのには、好都合だった。
 狛村からの問いかけに、秋田は小さく首を縦に振る。ぼんやり煙草の煙を燻らせる姿からは、これからの人生について連日考えあぐねた疲労が見て取れる。心配した狛村が帰って休むことを勧めても、「もう少しだけ」と答えるだけだった。
 そのまま互いに何も言葉を発することなく時が過ぎた。まだ冬本番ではないとはいえ夜の空気は冷たく、肺の中から体温を奪われていく心地がする。辺りを覆う無機質な集合住宅からは、家族の団欒を思わせる温かな光がこぼれており、二人のいる場所をより一層寒々しく演出していた。
「……お前は、因果応報って信じるか」
 先に沈黙を破ったのは狛村の方だった。散々悩んだ挙句の話題にしては突拍子もなかったが、話を振られた方はさして気にする様子もない。周囲にある家庭の明かりを横目に、本日何本目かの煙草に火をつけている。
「さぁ、どうだろう。あれば良いなとは思うけど。……おじさんは?」
「俺か?俺は信じない。どれだけ他人を貶めようが卑怯な手で金儲けしようが、自動で正義の鉄槌を下してくれるシステムなんて、この世にあるわけがない」
「……うん」
「ただな、物事には道理ってもんがある。録でもない生き方をしてる奴は、録でもない出来事に巻き込まれる可能性が高くなる。逆もまた然り。だから人は、出来るだけ良い行いをしようと心がける」
「……あくまで確率の話だろ。おじさんの言う通り、この世に因果応報なんてない。悪行も善行も自分に返ってくるとは限らない。どれだけ酷い方法で他人を不幸に陥れたって、法で裁ききれない奴は五万といる。そういう奴は大した報いもなく、何処かで幸せに生きるんだ」
「……幸せになんかなれねぇよ」
 自然と口をついて出たその言葉は、一瞬独り言の様にも聞こえた。思いのほか強い口調で言葉を返された秋田は、面食らった表情で隣を見る。
「傍目には普通に暮らしているように見えるかもしれない。金があって家族もいて、何不自由なく楽しそうにしているかも知れない。だがな、他人を蹴落としてまで自分の欲しいものを手に入れようとする奴が、今目の前にある幸せに満足すると思うか?」
「……分からない。周りに好き放題迷惑かけて、自分さえ良ければそれで良いって勝手に満足してる奴もいるんじゃないの」
 眉間に皺を寄せ、やや乱暴に頭を搔くと、吸いかけの煙草に口をつけた。温和な秋田が、ここまで苛立ちを隠さないのも珍しい。そんな素振りに臆することなく、狛村は黙って頭を振る。
「人の欲を甘く見ちゃいけねぇよ。誰だって現状に満足することは難しいが、他人の生活を滅茶苦茶にするほど欲深い奴なら尚更だ。1つ手にすれば、次は次はとキリがねぇ。もしまだ報いが来ていないのなら、手口も一層大胆になる。そうすれば、しっぺ返しを食らう確率も割り増しだ」
 狛村は、お世辞にも学のある人間とは言い難い。様々な理屈を捏ねてはいるが、聞く人が聞けば一笑に付される内容もあるだろう。そもそも欲深い人間全てが、彼の言う負のルートを辿るとは限らない。
 しかし、その言葉はどこか確信めいており、不思議な説得力を帯びている。全てを鵜呑みにするつもりはなかったが、秋田は自然と腑に落ちるものを感じていた。
「いいか。お前を騙した連中は、一生誰かを傷つけながら、自分の中にある抑えきれない欲求に食いつぶされまいと足掻き続けるんだ。満たされないっていうのは辛いぞ。幸せを感じる余裕もない。見方によっては、その姿が天罰と言えるかもしれんが、そんな曖昧なもんじゃない。他人が認知出来ようと出来まいと存在する、そいつの持つ性質であり現実だ。恨むなとは言わない。だが、今は放っておけ。自分が助かる事だけを考えろ」
 そのとき秋田は一陣の風が吹き抜けるように、懐かしい感覚にとらわれた。あれはいつの事だったかと、記憶の糸を手繰り寄せていく。実際の時間に換算すれば、数十秒程だろう。ある一つの出来事を思い出した。
「……ふふっ」
「圭一郎?」
 突然肩を震わせたかと思うと、秋田はクックと笑い出した。狛村は呆気に取られたが、秋田の体の震えが大きくなるにつれ、疑問より不安の方が先立つ。しかし当の本人は、体を屈めて「大丈夫だから」と掌を左右に振ってみせた。焦る狛村を安心させようとしたのだろうが、その目尻には、うっすら涙が浮かんでいる。
 発作が収まったのは、それから数分経ってから。腹筋が痛み出し、ゴホゴホと数回咳こんだ後だった。
「……あー苦しかった」
「お前な、吃驚するじゃねぇか。俺は、そんなに妙なこと言ったか?」
「違う違う。おじさんの話を聞いてたら、子供の頃のこと思い出しちゃって。ほら、前に母さんが連れてきた男に我慢出来なくなった時があっただろう?その時も、こんな風に滅茶苦茶な持論を一生懸命話してくれたなぁって」
「なっ、滅茶苦茶とはなんだ!」
「はははっ。おばさんだって呆れてたじゃないか。『この人の言う事は、話半分で良いからね』って」
酒を片手に大声で大胆な改善策を提案する狛村。そんな夫を諫めつつ、温かなご飯を振舞ってくれる彼の妻。かつての穏やかな日常を思い出し、秋田は僅かに瞳を細めた。
「滅茶苦茶だけどさ。おじさんが言うと、妙に納得出来るんだよな。あの時のおじさんの言葉があったからこそ、こうして母さんと別れて生きていく踏ん切りがついたわけだし」
 両親に対する煮え切らない気持ち。母親への不満と決別。子供なりに考え、悩み、行き詰まった時。決まって突破口を示してくれたのは、こんな風に必死に語りかける狛村の姿だった。
「裕ちゃんの件は、正直まだ混乱してる。ある時は『何とか見つけ出して殴りつけてやりたい。どんなに泣いて謝ろうが絶対に赦さない』そう思うのに、またある時は『裕ちゃんが人を騙すなんて信じられない。何か余程の事情があったんじゃないか』って心配になるんだ。そういう真逆の気持ちが交互に入り乱れて、それが余計に辛くて……」
 意図せず多額の借金を背負わされ、職を失った彼のここ数カ月間の記憶は曖昧だ。カサンドラ社の門を叩いたのも、金を稼ぐなら探行士という安直な思い付きだった。
 どうして自分がこんな目に合わなければいけないのか。そもそも黒岩は、金を返すつもりがあったのか。今どこで何をしているのか。旧友を陥れた事に対する罪悪感はあるのだろうか。
 そんな答えのない問いを延々と繰り返していた。
「駄目だな。もういい歳なんだし、しっかりしないと」
 狛村に諭され、励まされ、これでは昔の自分と変わらない。秋田は煙草の煙を肺の中へと押し込めて、長い溜息と共に吐き出した。右手は口元に戻ることなく、目の前の灰皿にまだ長さの残る白い筒を押しつける。
「お前は今までよくやってきたさ。こう言っちゃ悪いが、あの家庭環境でもお前は曲がらず育ってくれた。誰に迷惑をかけるでもなく、いち社会人として立派に義務を果たしてきた。何も恥じることはねぇ」
「おじさんとおばさんがいてくれたからね。俺は運が良かった。今回の件だって本当なら俺一人の問題なのに、おじさんが協力してくれる」
 そう言うとすっくと立ち上がり、狛村に向かって頭を下げた。
「おいおい。いいって、そういうのは」
「けじめだよ。おじさんには本当に感謝してるんだ」
「分かったから頭を上げてくれ。第一、本当に黄泉で稼げるかどうかもまだ分からねぇ。そういうのは無事に帰ってきて、連中に札束を叩きつけた後にしようぜ。な?」
 釣られる様にして立ち上がると、照れくささを誤魔化したいのか秋田の背中をバンバン叩いた。
 彼の言う通り、状況はまだ何も進展していない。今回の人員募集は新行区開拓に伴うものとの事らしいが、実際そこにどれだけ黄泉資源が存在するかは全くの未知数だ。
 そして何より新行区では、秋田が課長として現場の指揮を執る。魔物の巣窟である黄泉において、一瞬の判断ミスが命取りになりかねない。部下の命を預かる以上、個人的な感傷に浸っている暇などありはしないのだ。
「気合い入れないと」
「だな。まぁ、まずは帰って寝ろ。食うもん食って、しっかり寝る。何事もそれからだ」
 僅かに活力を取り戻した瞳に安堵すると、狛村は自身の腕時計に視線を移した。話に夢中になってしまっていたからだろう。いつの間にか時刻は深夜を回っている。
「しまったな。俺は歩ける距離だから構わねぇが……。お前はどうする。タクシー代足りるか?」
「いや、実は最近黄泉区に引っ越したんだ。前の家からだと、会社が遠いから。このまま歩いて駅に向かうよ」
 探行士の仕事に昼夜は関係ない。ドックは常に開かれ、黄泉付近にある飲食店や娯楽施設は、いつまでもその明りを絶やさない。眠らない街とでも言うべき黄泉区の需要に応えるべく、国鉄中往線だけは二十四時間電車を走らせ続けている。
「黄泉区へ行くなら中往線か。俺の家と反対方向だな。……一人で行けるか?」
「やめろよ、子供じゃないんだから。おじさんこそ、酔った勢いで側溝にハマったりしないでくれよ?」
 顔を見合わせ、快活に笑う。冗談が言い合えるほど気分が回復した事に、二人は胸を撫で下ろした。
「会社には明日、俺から話をつけておくよ。たぶん形だけでも面接は必要だろうから、日程は追って連絡する」
「あぁ、頼む。それじゃあ今日のところは、これでお開きだな」
 並んで公園を出た二人は、そのまま反対方向に歩き出す。少し進んだところで、狛村は背中越しに改めて礼を述べる声を聴いた。返事の代わりに、ひらひらと手を振り返す。
 年齢の割に体格のしっかりした影が、街灯の明かりの届かぬ先へ溶けていく。その光景を見届けた後、秋田もまた家路につくべく駅方面へと歩を進めたのだった。
 
 
 大気はより一層冷え込みを増していた。俺は無意識に両の手をコートのポケットにしまい込む。この分だと、今年一番の冷え込みになるかも知れない。
 今日は本来、探行士として働くという報告をするだけのつもりだった。黄泉へ行けば、何時なんどき事故や戦闘により消息を絶っても不思議はない。まるで遺言の様で気が引けたが、実の親より世話になったおじさんにだけは、今自分が置かれている状況を説明しておく必要があった。それがまさか、こんな流れになるとは思わなかったが……。
 おじさんと会う前はあれだけ心身ともに疲れ切っていたというのに、今は幾分気分が良い。誰かに協力して貰える有難さを噛みしめる一方、一人の男としては情けなくもあった。いくら悪意ある人間に陥れられたとはいえ、自分が注意を怠らなければ、ここまで問題は大きくならなかった。時を戻せるものならそうしたい。
 思えば、取り立てて輝かしい実績のない人生だった。唯一誇れる事といえば、特別誰にも迷惑をかけず、愚直に生きてきた事くらいだ。にも拘らず、今回の件でその唯一の自負も失ってしまった。あれだけ尽くしてきた会社にあっさり首を切られてしまった事は腹立たしいが、俺を出せという電話がひっきりなしにかかってきたり、取引先に悪い印象を与えてしまったのだから仕方がない。そして今、俺はおじさんの命まで危険に晒そうとしている。
 先ほどは懇願され約束してしまったが、果たして恩人に自身の失態の後始末を手伝わせて良いものか。やはり定員が一杯になってしまったとか、上から許可が下りなかったとか、適当な理由をこじつけて黄泉には一人で行くべきではないだろうか。そこまで考えたところで、いや、と心の声がする。
 今日の会話で、会社がとにかく人手を欲しがっているという事は分かってしまった。あのおじさんの事だ。俺の適当な嘘なんか直ぐに見抜くだろう。会社に直接問い合わせて、何が何でも入社するに違いない。
 俺は徐々に歩くスピードを緩め、やがてその場に立ち止まった。
 分かっている。逃げ場なんてない。俺には金が必要で、稼ぐとすれば黄泉しかない。今は自分が助かる事だけを考えろ、とおじさんは言った。それは、今までの自分の生き方とは逆行しているが……。
 頭上を見上げると、一面の暗闇がぽっかり口を開けている。郷里と違って東京の夜空は明るい。それでも目が慣れてくるにつれ、暗がりの中に小さく瞬く無数の星々が浮かび上がってくる。
 腹を括ろう。動いていれば何とかなる……いや、するしかない。
 俺はポケットの中で軽く拳を握ると、視線を前方に戻した。歩調は先程よりも早く、もはや小走りと言ってもいい。
 一旦気持ちが落ち着いてくると、それまで気にも止めなかった電柱の影や葉擦れの音が薄気味悪く感じてしまう。幾つになっても苦手なものは苦手だ。
 「これからもっと怖い所に行くっていうのにな」
 そう一人ごつ声は、思ったよりも前向きな響きを帯びていた。