JC時代にハマってました。もう全てがゴージャスでおシャンティでハイセンスなアニメですよね。
アニメではあまり泣かない方なんですけど、フランツお別れ回は予想外の凄惨さにただ茫然として、気付くと涙が頬を伝っていました。フランツ推しの人は当時さぞかし辛かっただろう……。
クソ重ストーリーアニメは1回観たらもうお腹一杯というのが普通ですが、巌窟王は定期的に観たくなる不思議な魅力があります。オッサン達が眼福だからかな?
JC時代は「そりゃこんだけ人生滅茶苦茶にされたら復讐したくもなるわ……」と一歩引いた目線だったのが、(勿論規模は小さいですが)人生において絶対に赦せない人が出てきた今の自分が観てみると、「分かる」と「辛い」しか言えませんでした。
アニメ巌窟王は綺麗な心で観ると「憎しみは誰かがどこかで止めないとキリないよ。自分も辛いし、失うものが大きいよ」というメッセージが見えてくるかと思うのですが、汚れちまった心で見ると「復讐は何も生まないなんて綺麗ごと。赦せないものはどうやったって赦せないし、何ならそれらと決着をつけるため、今、私はここにいる」という悲痛な叫びみたいなものが聞こえてきて、それに同意したい私がいて、辛いのに観たい。観たいけど辛い。
復讐したって自分が不幸になるだけなのに、自分を傷付けた人達に自分と同等の苦痛を味わわせてやりたい。その気持ちをどうしても抑えきれないエドモンの苦しみよ(アニメの場合この復讐心がなければ監獄から出られなかったし巌窟王との契約もあるから、「復讐やーめた」なんてこと出来ないけれども)
話の終わり方としては、結局直接関係ない人達も巻き込まれるわ死人は出るわ復讐したかった本人(エドモン)も憎しみから完全には解放されずに逝くわでただただ悲しい。けれどアニメを見終わった後には不思議な清々しさがあります。
ラストの演出の効果が大きいのは勿論ですが、この謎の清々しさにはフランツの「愛する気持ちも憎む気持ちも、最初は人を思う気持ちから生まれた」という言葉が生きている気がしてなりません。
エドモンの復讐心を怒りや憎しみといった負の感情として括ってしまうのではなく、元々はフランツとアルベールの友情だったり、エデの伯爵への愛情だったり、物語に登場する美しい感情と同じだったのだと教えてくれます。そりゃね。メルセデスを愛していたから、フェルナンを親友と思っていたからこそ裏切られたショックが大きかったわけですからね。
そう思うと益々「どうしてこんなことに」感が押し寄せてきて(いや欲を出した奴らが悪いんですけど)これが最終回でまたシミジミくるんですよね。本来はこんなに穏やかで美しい感情だったのに、と。
この気付きがアニメを見終わった後の、ハッピーエンドじゃないけど悲しみの中にどこか清々しさがあるという、他の作品にはない独特の余韻を生み出している気がします。
もうね、どうしてこうなった。
フランツもエドモンも欲を言えばフェルナンも生きて欲しかった。
みんなしゅき……。